私の子供の頃に比べると明らかに物質的に満たされ、情報量も圧倒的に増え、平均的には豊かな生活が出来ているハズだと思えるのですが、幸せ度はそうなってはいないようです。

標準値をどこに置くかが幸せ基準と関係していそうに思われます。
有名な幸せ大国と言われている(いた?)ブータンでは明らかに物質的な事以外に基準がありそうです。「人間関係」を基準とするのは陳腐ではありますが、正解に近そうに思います。
またブータンでは海外生活から帰ってきた人達の幸せ度は下がるらしいです。幸せという意味では余計な情報を得てしまったのでしょう。知らない事が幸せと言う事もきっとあるのですね。

日本でも溢れかえる比較情報に晒されて、他者比較、ハイレベルな人達の情報が大袈裟にアピールされて入ってきてしまう状況です。
「自分基準」をどう置くか、「他人基準を自分基準として設定してしまっていないか」、が幸せを測る上でとても大切だと言う事ですね。
そもそも自分自身の幸せは何からもたらされるのかを深く考えた事がある方は少ないかも知れません。モノなのか、コトなのが、体験なのか、状態なのか、人間関係性なのか、自分自身のあり方なのか、等々いろいろな軸が考えられます。
逆に不幸や悩みってなんだろう?と考えてみるのも大事かも知れません。不幸ではない事が幸せと言う消極的幸せ論もありますし。
ちなみに心理学の大家アドラー曰く、人の悩み事はほぼ全て人間関係からもたらされると言う趣旨の事を言われていました。こちらも自分自身の感覚と照らし合わせてみると、肯定せざるを得ません。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6
少し関係しそうな話として、先日Podcastで日本で路上生活を体験してレポートされている方の話を聞きました。食事に困る事はない、お風呂にも入れる、一番気をつけなければならないのは炊き出しや、支援の情報を仲間内から取得する関係性ネットワークだとの事。常識のタガを外してしまえば、日本で飢え死にする事はあり得ないとの事でした。

これも他人基準や世の中の「常識」から考えると意外に思えますし、仮に生きていけるからと言って許容できる人とできない人がいて、当然ですね。
自分基準て何だろう?世の中基準て何だろう?幸せに生きるってどういうこと?を自分なりに定義してみるのも良いかと思いました。
ちなみに私の自分基準は、人に迷惑かけず(出来れば少し役に立って)、ちょっと前の自分より、何かできる事が増えたり、面白いネタ・情報が増えたりして、自分を満たすネタ(物質ではないかも)が増えてく状態かなぁ、と思います。

いつか年老いて、できる事が減っていったり、知っていることが減っていく時が来ると思いますが、その時はその時に改めて考えてみます。きっと自分なりに面白い答えを見つけられそうな予感がします(笑)。
“人の幸せは絶対値ではなく、相対的に判定される?” への2件のフィードバック
深いですね。思わず2度読みしてしまいました。
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ありがとうございます。幸せになりましょう!!
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